■沖ノ島と並ぶ聖地となった高宮祭場
三女神が祀られているのが宗像大社だ。
辺津(へつ)宮・中津(なかつ)宮・
沖津(おきつ)宮よりなり、それぞれにイチキ
シマヒメ(市杵島姫)、タギツヒメ(湍津姫)、タ
ゴリヒメ(田心姫)を祀る。もともと在地の豪族
である胸肩(むなかた)一族が祀っていた神だという。
スサノオが勝ち誇ったわけは、三女神を奉斎し
てきた胸肩一族の存在と、その祭祀形態だったと
思える。とくに沖ノ島に鎮座する沖津宮の存在は
大きい。玄界灘のほぼ中央に位置し、全島が岩石
でできた、巨大な岩屋ともいえる島影は、海に浮
かぶ磐座そのものだ。縄文前期にまでさかのぼる
最大、かつ最重要とされる磐座祭祀遺跡が存在す
ることで知られる。
(『磐座百選』より一部抜)
■「日本三霊水」の霊水が湧き出る般若窟
英彦山は、『地名辞書』には、エイヒコサンと
ある。もともとは「日子山」とよばれ、やがて
「彦山」となり、江戸期に勅許をうけて「英」を
冠した。
古くから信仰の山として崇拝されたが、いわゆ
る式内社ではない。神仏分離までは、「英彦山三
所権現」と称し、霊仙寺という神宮寺が存在した。
福岡・大分の県境に位置し、標高1199メート
ルながら、出羽三山・熊野三山と並ぶ修験道の一
大拠点として名を馳せた。
九州修験の特色は「岩屋信仰」といわれるが、
英彦山の開山も岩屋に端を発する。「般若窟」と
か「玉屋窟」とよばれる岩窟で、霊水が湧き出る
聖地としても知られる。歴史は古く、仏教が伝来
する以前の開山と伝わり、戦国期に書かれた「縁
起」によると、継体天皇25(531)年に、
北魏の僧である善正が入山し、般若窟にこもっ
て修行したことが始まりとされている。
(『磐座百選』より一部抜粋)
■ヤマト王権に挑んだ磐井の矜恃 、武装石人
継体天皇21(527年)年、古墳時代最大
の内乱とされる「磐井の乱」がおきた。筑紫君 磐井を盟主とする
九州の諸豪族がヤマト王権に挑んだ「独立戦争」といわれる。
この乱は、王権の朝鮮出兵を拒否した磐井の
「反乱」とされてきたが、最近は、独立性を保っ
てきた土着勢力と王権との間でおきた「覇権争
い」という説が有力視されている。結果、磐井が
敗れ、王権の直接支配が強化されることになる。
王権に戦いをいどんだ磐井の最後は謎にみちて
いる。『記・紀』では「磐井を斬殺した」とあり、
『筑後国風土記』逸文では、「ひとり豊前国の上膳(かみつけ)
の県に逃れ、南の山の峻 (さかしき)嶺の曲に終りき」
と記されている。王権側では斬り殺したと記し、
風土記には、上膳の県に逃げて南の山のけわしい
山中で生涯を終えたと記されているのだ。
(『磐座百選』より一部抜粋)